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親父と俺と葬式と4

前回の記事から4年近くもたってしまった。

すっかり忘れている事もあるが再び思い出しながら書いていきます。

 

前回は病理診断の為に皮膚を一部切除するところまで書いた

 

そこからも更に展開は早く、現在の状態で自宅での生活はなかなか厳しいだろうから入院しますか?と医師に言われ、少し逡巡したが自分が常に一緒に生活しているわけでもなく、きっとまたご飯も食べないし、日の当たらない部屋で一人で寝たきりになるのは目に見えていた為、お願いしますと直ぐに手続きをした。

 

生活保護受給者でもあったため保護課へ連絡を入れて、入院する旨を伝えその後の事について色々と担当の方にお話しを伺った。

 

保護課の親父の担当の方とは今回の受診から入院までの手続きで初めて話をしたのだが、とても話しやすくこちらの話している内容の意図を読み解いてくれてスムーズに事が運んだ。またお役所仕事的な悪い印象もなく、親父は恵まれたなと思った。

 

その後、入院に必要なものを一通り買い揃え病棟の看護師へと手渡し1日が終わった。

 

自分は入院した事がないし、家族の入院の手続きをした事もなく、なれない事をした為か、その日の疲労感もあり自宅に着くと食事もとらず直ぐに眠りに落ちた。

 

翌日からは看護師さんから~~が欲しいので準備お願いできますか?といった電話でのやり取りがあり、依頼されれば持っていくといった日々を続けていた。

入院して栄養状態も改善された為か少し良くなったのでは?

このまま退院も近いのかな?とそんな風に考えていた。

ただ一点、掌から腕にかけての浮腫みがあることが気がかりだった。

 

季節は7月夏が来ていた。

親父と俺と葬式と3

前回の記事からすっかり月日が開いてしまいましたが、思い出しながら書いていきます。

 

親父の首の痛みと、首にある瘤が気になったのと、どうにも自分で立ち上がって何かをするといった気力も無さそうなので、近くの総合病院の救急外来を受診に連れていきました。

 

病院に到着し、診察を受けたものの、その日に担当してくれた先生は、整形の担当の先生で詳しくはわからない為、明日また内科を受診するように言われ痛み止めの薬を処方され帰宅。

 

この時の受診から、親父の最後へ向かうカウントダウンの様なものが始まった気がする。

 

その当時の僕は非情かもしれないが、仕事もあるのに面倒臭いなといった事を感じていた。

 

翌日、受診の為朝早くに親父のアパートを訪問すると

 

やはり、出ない…

 

ただ、この時には自分の中で親父は立ちあがるのもしんどそうなのを理解していた為、部屋の鍵は預かっていたのですぐに室内に入る事が出来た。

 

親父の身支度をし、病院へ向かい受付を済ませ診察を待っている最中も、しきりにキョロキョロしている親父、少し違和感を覚えたので聞いてみた。

 

僕:どうしたの?

親父:今日雨降ってないか?

僕:降ってないよ?

親父:んだが、せば良かった。

僕:?

 

しきりに雨の事を気にしたり、妙な事を繰り返し話したりで僕は少しいら立っていた。

そんな時親父の診察の順番がきた。

 

先生はとても若い内科の先生で、最近の様子から話始め、今後どういった事になるのか少し質問させてもらった、先生は落ち着いた声で症状聞いただけでは判断出来ない為、一通り検査をしましょう。

当然だ。

自分の話だけをしてしまった自分が少し恥ずかしかった。

 

そのあとは、血液、MRI、CTといった検査を一通り受け、結果を待った。

 

検査結果が出て、診察室に通され先生が口を開くまでの時間が異様に長く感じられた。

身体の状態が悪いから受診し、悪い確信を得たくないのは随分都合がいいなと少し自嘲した。いつかの映画で「聞きたくない答えは質問するな」とはよく言ったものだなと

 

もちろん検査の結果の数値はいいとは言えないものだったし、まだ病理検査をしないとわからないがと前置きの上で、先生は「悪性リンパ腫の疑いがあります。」

 

もちろん、わからない単語だらけで頭が混乱していました。

 

先生がここから変わり別の先生になりました。

 

病理診断は1週間以上かかる事や色々な説明を受けたがここら辺は正直覚えていない…

同意書を記入し、直ぐに手術が始まり1時間ほどかかると聞き、その間に昼食を済ませたが食堂の料理はあまり美味しくなかった事だけは覚えている。

 

続く

 

 

 

 

 

親父と俺と葬式と2

故郷の市営住宅に住んではいたものの、中々趣きのある建物で人が住めるの?ってレベルの建物でした。友人関係や兄妹との関係とは疎遠だったようで、だったら自分の近くの街に移り住んだら?と提案し。約3年の故郷での生活を終え、僕の務め先の近くに部屋を借りて住むことにしました。

 

移り住んだ後には、僕も姉も生活できているか心配で折を見ては様子を見に行きました。

 

2019年の5月のある日、姉から親父と連絡が取れないから様子を見に行って欲しいと連絡が来ました。

 

急いで住まいのアパートに向かい、呼び鈴を押すも暫く反応がなく何回目かの呼び鈴で部屋から出て来たがその時の様子は、大分痩せたな、ちゃんと食べてるのかな?って心配に思いました。今にして思えばこの時には既に病魔が体を蝕んでいたのだと思います。

安否確認も出来ましたが、晴天なのにしきりに雨降ってないか?って気にしているのと、部屋は綺麗に片付けている親父の部屋が乱雑に散らかっているのが、少し気がかりになりつつもその日は帰宅しました。

 

異変は6月下旬に再びやって来ました。

 

また連絡が取れなくなったのです。再度部屋に向かい呼び鈴を押すも一向に出てくる気配がない…隣家に事情を話し、窓から部屋に入る為、脚立を借りて部屋に侵入すると起きてはいるが座り込んでいて立ち上がる事の出来ない父がいました。

 

僕:どうしたの?

 

父:立てない

 

部屋を見回すと明らかにおかしい様子は直ぐにわかりました。電気やガス、水道も停まっていましたし、何日も食事も水分も取れていないような状況で脱水等おこしているのでは?と思い、急いでライフラインを開通させ食事を購入しに行きました。

 

ライフラインが開通したのを確認して一緒に食事をするも半量位を食べて後いらないとタバコを吸いだしました。

 

食事と水分を摂取していくらか体調が上向いたのか入浴し病院の受診を勧め僕はその日は帰宅しました。

 

翌日、仕事終わりに立ち寄った際は部屋の前に上の階の住人の方が呼び鈴を押している姿を発見しました。

 

僕:どうされましたか?

 

住人:テレビの音がうるさくて来たんだけど全くでてくる気配がない

 

父に電話するも出ない…再び隣家に事情を説明し窓から部屋に入ると起きれない父を発見しました。

 

僕:今日病院行ったの?

 

父:行ってない…首痛くて立てない

 

今までも首に瘤あるなって認識はしていたのですが、ゴルフボール半分位の大きさになっていました。

 

                  続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親父と俺と葬式と1

親父の生い立ちや人生を少し振り返ります。

 

親父は秋田県男鹿市で生まれで四人兄妹の次男でした。親父の子供の頃の事は僕も興味が無かったし親父も進んで話す事も無かったのでこれ位しか情報はありません。

 

親父は集団就職とかってので中学校卒業後東京に上京したようです。その後は職を転々としていたようですが、いつの頃か大型トラックの免許を取り長距離のドライバーをするようになりました。

 

僕が記憶している中では、僕が高校卒業まではこの仕事をしていた様に思います。その後も何かしらの仕事はしていた様ですが僕にはわかりませんでした。

 

ここまで読んでくれた方の中には、どこかひと事のような関係性の薄さを感じる方もいるかもしれませんが、本当に僕は親父の事を何も知らないのです。子供の頃に一緒に何をしたとかそういった思い出があまりないのです。記憶に残っているのがタバコが大好きで、寝酒を毎晩呷ってる、ギャンブルで人生を狂わせた一人の哀れな男にしか映ってませんでした。

 

そんな親父ですが僕が20歳を過ぎると一緒にパチンコやパチスロに行く事がたまにありました。パチンコ屋でのコミュニティの中での親父は普段見る事もない表情が見れて少し驚いたのを憶えています。

 

そんな親父も僕が26歳の時に母と離婚します。理由は親父の借金癖です。詳しい額は把握してないのですが中々とんでもない額と姉から聞いた記憶があります。

 

離婚後は家を出て故郷の男鹿市生活保護の申請をして細々暮らしていた様で、僕もたまに様子を見に行ったりもしました。

親父と俺と葬式と

僕の親父は去年の8月14日に亡くなりました。

 

無くなった理由は肺ガンです。

 

もう少しで、亡くなってから半年経ちます。

 

少し自分の中で整理できてきたけど、親父の事を忘れたくないし、当時の気持ちだったりその際に経験した事が誰かの知識になってくれたらいいなと思って書き残します。(実際、僕も沢山調べた)